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ブロックチェーンやそれ以外に関してツラツラと...

倉庫が満ちた時、脳は報酬を失う ――『エスケープフロムダッコフ』に見る慣れと報酬系の心理学

はじめに:報酬の構造を観察できるゲーム

『エスケープフロムダッコフ』は、“タルコフ系”の探索型サバイバルFPSをアヒルの外見で再構築した作品だ。

価格は約1800円(セール時は1500円前後)ながら、その構造は本家『Escape from Tarkov』の特徴──緊張感、ロストの恐怖、倉庫整理の面倒さ──を忠実に再現している。

プレイヤーは敵を倒し、物資を漁り、脱出してそれを倉庫に持ち帰る。

一見単純なループだが、その中で生まれる心理反応は驚くほど複雑だ。

序盤の高揚感が、次第に倦怠と無気力へと変わっていく。

この現象は、心理学的に報酬予測誤差(Reward Prediction Error)快楽順応(Hedonic Adaptation)、そして制御感(Sense of Control)という3つの観点から説明できる。


成長と緊張の幸福期:報酬予測誤差が最大化する瞬間

ゲーム序盤、プレイヤーは脆弱な状態でマップに放り込まれる。

装備は乏しく、敵の位置も不明。

だが、この不確実性こそが脳の報酬系を最も刺激する。

「報酬の大きさ」ではなく、「予想外の報酬」に対してドーパミンは最も強く反応する。

— Schultz, W. (1997). Neuron, 19(2), 473–485.

帰還できるかもわからない中での一勝、 予想外の戦利品を得た時の喜び――

これらが高い報酬予測誤差を生み、強いドーパミン反応を誘発する。

努力が確実に結果に結びつく段階では、 心理学でいうフロー状態(Csikszentmihalyi, 1990)が生まれる。

挑戦と能力のバランスが取れているとき、人は最も深く没入する。

つまり、序盤の『エスケープフロムダッコフ』は、 不確実性そのものを報酬に変える設計を持つ。


慣れと倦怠:快楽順応が始まる

装備が整い、マップを把握し、敵を容易に倒せるようになると、 報酬は予測可能になり、興奮は薄れる。

BrickmanとCampbell(1971)は、人間がどんな快楽にも慣れてしまう現象をヘドニック・アダプテーション(快楽順応)と呼んだ。

どれほど豪華な報酬も、繰り返されれば基準化される。

プレイヤーはもはや「勝って当然」と感じ、 倉庫整理や在庫管理といった作業的プレイが中心となる。

脳は「新奇性(Novelty)」を失い、ドーパミン分泌が減少。

それでもプレイを続けてしまうのは、 かつて得た興奮の記憶――ドーパミンの残響――が行動を駆動するからだ。

しかし、それは再現不能な“過去の報酬”を追う行動にすぎない。

この段階で、快楽は作業へと変質する。


努力と報酬の断絶:学習性無力感の萌芽

ゲーム終盤では、クエスト進行がランダム出現に依存する。

特定のアイテム(機密ファイルや双眼鏡など)が出ない日が続き、 努力しても結果が変わらない状態が生まれる。

心理学者Seligman(1975)が提唱した学習性無力感(Learned Helplessness)は、 「行動しても結果が変わらない」と学習することで、行動意欲が失われる現象である。

「やれば進む」から「やっても変わらない」へ。

その変化がプレイヤーの制御感を奪い、報酬系を沈黙させる。

こうして、“挑戦と達成”という正のループは崩壊し、

プレイ体験は“報酬のない作業”へと変わっていく。

怒りや悲しみではなく、ただ静かな無気力が残る。


結論:報酬系は有限のリソースである

『エスケープフロムダッコフ』は、 可愛らしいアヒルの見た目に反して、人間の報酬系がどのように興奮し、そして冷めていくかを観察できる装置である。

  • 序盤:報酬予測誤差による高揚
  • 中盤:快楽順応による停滞
  • 終盤:制御感の喪失による無力化

これらは単なる“飽き”ではなく、 ドーパミン経済の自然な収束として理解できる。

倉庫が満ちた瞬間、脳は報酬を失う。

だが、私たちはまた別の倉庫を求めて、新しい世界へ旅立つ。

報酬を追い求めること自体が、 次なる未知を探す原動力でもある。

『エスケープフロムダッコフ』は、 その人間的なサイクルを静かに映し出す鏡なのかもしれない。


参考文献

  • Schultz, W. (1997). Predictive reward signal of dopamine neurons. Neuron, 19(2), 473–485.
  • Brickman, P., & Campbell, D. T. (1971). Hedonic relativism and planning the good society. In M. H. Appley (Ed.), Adaptation-level theory (pp. 287–302). Academic Press.
  • Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience. Harper & Row.
  • Seligman, M. E. P. (1975). Helplessness: On Depression, Development, and Death. W.H. Freeman.